「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉が有名なデカルト。
『方法序説』はそんなデカルトが表した重要な書物のひとつです。
『方法序説』では、主に「どのように絶対的真理を求めればいいのか」について論じられていますが、内容が複雑で理解するのが難しそうと感じている人は少なくありません。
そこで今回の記事では、デカルトについて、デカルトが著した『方法序説』の概要、『方法序説』の内容、ニーチェによるデカルト批判について紹介します。
デカルトやデカルトの思想に興味がある方は、ぜひ参考にしてください。
デカルトの『方法序説』とは
合理主義哲学の祖と言われるルネ・デカルト。
デカルトの名前を一度は耳にしたことはあるのではないでしょうか?
そんなデカルトの『方法序説(1637年)』は、主に「どのようにキリスト教を信仰すべきか」が説かれている書物です。
同書物において、デカルトはすべての人が真理を見いだす方法を思案しました。
『方法序説』について理解を深めるためにも、まずはデカルトの生涯や時代背景を確認しておきましょう。
デカルトとはどのような人?
引用:いらすとや
ルネ・デカルト(Renatus Cartesius)とは、「近代哲学の父」と呼ばれる哲学者、および数学者です。
1596年にフランス中部、アンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれました。
高等法院評定官の父親をもち、母親はデカルトが生まれてから1年あまりで亡くなっています。
デカルトが10歳のとき、優秀な教師と生徒が集まるラ・フレーシュ学院に入学。
デカルトは学院で優秀な成績をおさめ、論理学や形而上学、自然学などの他に占星術や魔術などの書物を読み、特に数学を好んだと言われています。
1614年に学院を卒業した後、デカルトはポワティエ大学に入学し、法学・医学を専攻しました。
大学を卒業した後は、1618年にオランダで軍隊に参加、1619年には三十年戦争に参加するためにドイツへと向かいます。
その後もヨーロッパを転々とするものの、1628年にオランダに定住し、方法論的な原理を探求し続けました。
53歳のときにスウェーデンの女王、クリスティーナに招かれ、女王のために朝5時から講義を行ったと言います。
風邪と肺炎を併発し、デカルトはストックホルムで死去しました。
デカルトの主著には、『方法序説(1637年)』や『省察(1641年)』、『情念論(1649年)』などが挙げられます。
デカルトはどうしてヨーロッパを転々としたの?
上記で説明したようにデカルトはオランダ、ドイツ、イタリアなど、さまざまな国を訪れました。
これは、デカルトが書物による教育に疑念を抱いたことがきっかけです。
デカルトは神学やスコラ学が非厳密性であるとして、これらの学問を基盤にした学院の教育を疑問視するようになりました。
そうして、デカルトは世界という大きな書物を見つけるため、さまざまな場所を巡ったのです。
デカルトが著した『方法序説』
『方法序説』とは、1637年に刊行された、デカルトの著書です。
ちなみに、刊行当初の正式名称は
『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』でした。
この刊行当初の正式名称からもわかるように、『方法序説』は屈折光学、気象学、幾何学の三論文についてまとめられています。
他にも、デカルトの思想がどのように形成されたのか、デカルトが唱える学問の方法論とは何かなどが記載されており、17世紀の科学に多大なる影響を及ぼしました。
『方法序説』の何が特別だったの?
『方法序説』は、フランス語で書かれた最初の哲学書と言われています。
当時、哲学書といえばラテン語で書かれるのが一般的でした。
古代ギリシア語やラテン語は、新約聖書やカトリック教会による翻訳で用いられることが多く、理想の言語とされていたのです。
しかし、デカルトはフランス語で『方法序説』を書き上げ、さらには難解な哲学用語を使わないようにしたと言います。
これは明らかに反体制意識の現れであり、科学だけでなく哲学の分野で大きな影響を及ぼした理由の一つでもあります。
ちなみに、ドイツ語で初めて哲学の分野で使用したのはイマヌエル・カント(Immanuel Kant)です。
カントに関しては、以下の記事で詳細を紹介しています。
デカルトが著した『方法序説』の内容
それでは、『方法序説』にはどのような内容が記載されているのでしょうか?
方法的懐疑
方法的懐疑とは、絶対的な真理に到達するためにデカルトが提唱した概念です。
参考書を引用しながら、方法的懐疑の意味を確認してみましょう。
方法的懐疑とは、確実な知識を獲得するためすべてのものを疑ってみることであって、少しでも疑わしいものは全て真ではないとしてしりぞける、という態度をつらぬくことである。
参考:佐藤正英. 改訂版 高等 倫理. 数研出版株式会社. 2012. p.125
つまり、方法的懐疑とは少しでも疑いのあることを偽りと見なし、確固たる確実性をもったものが残らないかをはっきりさせる態度を意味します。
これは、すべてを偽りと見なす懐疑論とは区別されます。
われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)
デカルトといえば、「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
この「われ思う、ゆえにわれあり」とは、デカルトが『方法序説』の中で唱えた命題です。
デカルトは方法的懐疑により、自分を取り巻く(自分を含めて)全てのものが偽りだとしても、自分がそれらを疑っている事実は確実性をもつと主張しました。
何かを疑う意識が確実であれば、その意識をもつ自分だけはその存在を疑うことができないということです。
「われ思う、ゆえにわれあり」に関して、参考書では以下のように説明されています。
デカルトは、感覚や下界の実在はもちろん、数学的知識の確実性も疑った。
しかし、そうした疑いのはてに、どうしても疑うことのできないものがあるのに気がついた。
それは、そのように疑っている(疑わしいと考えている)私がどうしても存在しなければならない、ということであった。
このことを、彼は「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」と表現し、哲学の第一原理としたのである。
ちなみに、この命題は「コギト命題」と呼ばれることがあります。
参考:佐藤正英. 改訂版 高等 倫理. 数研出版株式会社. 2012. p.125
ニーチェによるデカルト批判
デカルトが唱えた「われ思う、ゆえにわれあり」は、ニーチェによって批判されました。
以下で詳しく確認しましょう。
ニーチェとは
引用:いらすとや
フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)とは、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者、思想家、および哲学者などとして知られている人物です。
実存主義(人間を中心に据える考え方)を主張した代表的な哲学者としても有名で、19世紀の哲学に大きな影響を及ぼしました。
実存主義とニーチェ、そのほかの思想家に関しては以下の記事で紹介しています。
ニーチェによる批判
ニーチェは自身の中心概念である『権力への意志』に従って、「疑いをもつ私たちは自分自身を現象として認識しているにすぎない」と主張しました。
これは後に「主体の形而上学」と呼ばれ、存在し得ない主体に重きを置くのは間違いだとデカルトを批判したのです。
まとめ
今回の記事では、デカルトについて、デカルトが著した『方法序説』の概要、『方法序説』の内容、ニーチェによるデカルト批判について紹介しました。
デカルトは『方法序説』で、徹底的に疑うことで確実性をもつ事象を見つけようとしました。
これにより、世界的に知られている「われ思う、ゆえにわれあり」というフレーズが誕生したのです。
しかし、後にデカルトはニーチェなどの哲学者によって批判されます。
このように流れを掴むことで、哲学がどのように発展したのかを理解できるので、ぜひ他の記事もチェックしてみてください。
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